わたしの人生の中で最も『完璧な恋』だった。

気がつけばオレンジ色の雲ばかり写真に撮ってしまう。
夏の夕暮れの空を見ると切なくなってしまう。
何か、大切なものを忘れている気がする。

その理由を唐突に思い出した。

あの頃よく見ていた空だった。
二十数年前、わたしが中学生の時。
いつも夕暮れ時に好きな人の背中を探していた。

その人のことは、好きにならざるを得なかった。
あんなの、好きにならないほうが無理だとこんなに時間の経った今でも思う。
そしてそれはわたしの人生の中で最も『完璧な恋』だった。

わたしがある日突然気づいた恋心は、最後まで相手に幻滅せず汚い感情も持たずに、結晶のようになり自分の中へとても綺麗に帰結した。

何年経っても、時々わたしはその結晶を大事に取り出してこっそりと磨いていた。

だから当時の感情や見えていたものを細部まで緻密に記憶していたし、わたしが大人になってからは彼も大人になって何度も夢に現れた。

夢の中の彼はいつも他の誰かと付き合っていて、わたしと親密に話した後に誰かのもとへ帰っていくのだった。

もし、今同じ人が目の前に現れたらまた好きになってしまうかもしれない。
もしくは相手を見て幻滅してしまうかもしれない。
だからわたしは、絶対に同窓会には行かない。

そのくらい大事にとってある初恋の話。
結晶は、夕暮れ時の眩しいオレンジ色に光っている。

彼の名前は片野君(仮名)という。
2年生で初めて同じクラスになった。

中学時代のアルバムを誰かに見せると「この子だけかっこいいね」と指をさされる程、人目を引く外見をしていた。
まだ話す前の片野君は、明るくていつも人に囲まれて笑っている、リア充男子という印象だった。

中学2年生のわたしは演劇部で、たくさんの本を読み漁り漫画を書くことに夢中なややオタク気味の学級委員長だった。
女子の間では少し浮いていたと思う。
休み時間に必ず一緒にトイレに行くとか、仲良しグループを作って交換日記をしたりとか、そういうことにあまり興味がなく、むしろ辟易していた。

小学生の頃は男の子とばかりスーファミや木登りをして遊んでいたが、
中学に入るとさすがに「男友達が多いと女子の敵を作る」ということを学んでいたので、男の子とだけ仲良くするのは辞めていたが、それでもまだ男子といるほうが気を使わなくて楽だと思っていた。

もしも、一度だけ過去へ戻ってやり直せるとしたらいつがいいと訊かれたら、わたしは迷わず『中学2年生の1学期』からやり直したい。

もう一度同じ結果になるとしても、あの時間に戻れるのなら何だってする。

その、中学2年生の1学期。これが始まりだった。

教室で
「オレ、くりちゃんと話してみたいんだよね。T君なんとかしてよ」
と片野君の声が聞こえてきた。

(わたしは名前の一部をとって、女子からくりちゃんと呼ばれていた)
小学校から腐れ縁のT君が面倒くさそうに眉間にしわを寄せながら、
「だってよくり!」とこちらに投げてきて、わたしはそこで初めて片野君を真正面から見た。

彼は整った顔に、ニコニコと人懐っこい笑みを浮かべていた。

確かに人目を引くかっこよさではあったけれど、その時のわたしは気にも留めていなかった。

片野君のことを好き、と騒いでいる女子はわんさかいたので、下手に話したりするとまた厄介事が増えるなくらいにしか思っていなかった。
(実際その後引くくらい厄介事は起こるのだが、それはまた別の話)

そりゃ勉強ができて運動神経もよくてサッカー部で、優しくて面白くて、外見は(今の芸能人で例えるなら)平野紫耀に似ている男子がいたらモテないわけがない。
しかし片野君自身は、自分の外見のよさやモテ具合にはまったく無自覚だった。

その日から彼はよく話しかけてくるようになり、最初はのらりくらりと女子の目を気にしてかわしているつもりだったわたしも、好きな音楽やゲームの趣味が合ったので自然と仲良くなり、CDやゲームのカセットを交換したりして、一緒に話すことが多くなった。

彼がすごくおかしなことを真面目に敬語を使って話すのが面白くて、いつも腹が捩れるほど笑わされた。
中学男子なのに言葉使いがやけに丁寧で、男子でわたしを名字でなく「くりちゃん」と呼ぶのは彼だけだった。

今まで一緒に遊んでいた男子はわたしを男扱いしていたが、彼だけはわたしをちゃんと「女の子」扱いしてくれた。
それが一緒にいて心地よくうれしかった。

もちろん仲が良ければそれだけ「あいつら付き合ってるのか」という噂は立ったが、全く恋愛感情はなかったので「そんなわけない」と一蹴していた。

…恋愛感情がどういうものかを知らなかったから。

その夏は、学年で山登りに出かけるイベントがあった。

両手両足を使って登らなければいけない急な岩場があり、用心深く一人ずつ通過している場所で、わたしは生徒の長い列の最後尾にいた。

前の方から「片野!どこ行く!」という男性教師の声が聞こえ、遠くから彼が引き返してくるのが見えた。

岩場までたどりついたわたしが何事かと上を見上げていると、
片野君は「くりちゃん、ここは危ないから捕まって」と手を伸ばしてくれたのだ。

(危ないのは知ってる、みんな見てる、わざわざ手を貸してくれなくても登れる…)

一瞬、その差し出された手を握らない選択をするべき理由がたくさん頭をよぎった。
すでに登り終わった同級生たちがこちらを見ているのも肌で感じていた。

でも嬉しかった。

自分のところにまっすぐに駆けつけてくれたのが嬉しかった。
「恥ずかしいからいいよ」と払いのけることなんてできないくらい嬉しくて、素直に彼の手を掴んだ。
お互いの軍手ごしに体温が伝わり、あったかい…と一瞬思った。

そのままわたしを苦もなく引き上げた片野君は
「大丈夫?くりちゃんは背が小さいんだから心配ですよオレは…」
という優しい気遣いの言葉をくれた。

それなのにわたしは、
「背が低くて悪かったわね」という憎まれ口しかきけなかった。

近くで担任の先生が、「片野お前、いいとこあんじゃん」と彼を褒めていたおかげか、そのことを他の生徒に冷やかされることはなかった。

…心臓が、生まれて初めて変なふうに飛び跳ねているのが自分でわかった。

そうだ、この日だった。
片野君の手を掴みその体温を感じた瞬間に、わたしは彼を好きなのだと自覚したのだった。

その日を境に、わたしは彼の容姿が素晴らしくかっこいいということに気づいて緊張してしまい、今までみたいに普通に話すことができなくなってしまった。

まるで、わざとよく見えないようにかけていたフィルターが外れたかのようだった。

彼の茶色がかった大きな瞳や、野暮ったさのかけらもなくすっと通った鼻筋や、サッカーで鍛えているふくらはぎの筋肉や、長い指が揃った大きくてきれいな手や、笑うとこぼれる形のいい白い歯や、中学生のくせに無駄に色っぽい首筋が見えてしまい、面と向かうことさえ難しくなった。
今まではふざけてグシャグシャとかき回したりしていた柔らかい栗色の髪にも二度と触れることができなくなった。

遠くから片野君に「くりちゃーん!」と手を振りながら名前を呼ばれたり、
掃除の時間にふざけて窓越しにキスしようとしてきたり、
返却されたテストの点を覗き込まれて無理やりハイタッチされたり、
わたしが貸した可愛いめの傘を恥ずかしがりもせずに開きスキップして登校してくるのを見ただけで、心臓が荒縄で締め付けられたようにぎゅっとなり、こめかみが痛くなった。

少しでも彼に嫌な部分が見えれば、前のように友達と思えるかもと思ったが、彼はどこから見てもキライになれる要素がなく、完璧に思えた。

いや、たとえ目の前で鼻をほじったりおならされたりしても、わたしは幻滅しなかっただろう。

彼の外見や雰囲気だけではなく、彼の考え方が好きだった。
彼を構成している物質すべてが好きだった。
彼という存在そのものが、わたしの毎日にとって重要になっていった。

ある日、個人面談のときに片野君のお母さんが彼の小さい弟くん(5)を連れてきていた。

わたしはその時中庭を歩いていたが、校舎の中から聞こえた「くりちゃん!」という片野君の声で飛び上がり、爆発しそうな心臓を押さえながら振り向いた。

「ちょっと待って!見てー!」と片野君が小さくて彼そっくりな子を抱っこしながら走ってくるのが見えて卒倒しそうだった。
「オレの弟です!可愛いでしょ〜」と頬ずりしながら笑う片野君も可愛くて息が止まるかと思った。

小さい子が好きなわたしは弟くんにメロメロになり、大人が面談している間、3人で地面に絵を描いて遊んだ。

人懐こい弟くんを優しい顔で見守る片野君は本当に素敵で、彼がこちらを見ていないのをいいことにわたしは彼の横顔を心に刻みつけるシャッターを何枚も切った。

思えばこの時も、彼は何かしら用事を見つけてはわたしに話しかけてくれていた。

すっかりぎこちなくなって無愛想になってしまったわたしと、普通にしゃべりたいと思ってくれていたはずだった。

でもこんなふうに彼と話すたび、さらに彼を好きになってしまった。
好きになればなるほど、わたしはガチガチに固まりどうすればいいのかわからなくなっていった。

だからわたしは後ずさった。

彼が今までのように陽気に接してきても対応できず、心臓の音が聞こえやしないかと冷や汗をかきながら彼を避けることが多くなってしまった。

その頃、今まで屈託なく一緒に遊んでいた男子たちはすごいエロ本がうちにあるだの、マスターベーションをしただのしないだのという話をしてわたしに入ってくるなと牽制したし、女子は女子で付き合っている人がいるだの、キスをしただのという話で盛り上がり、一番仲の良かった女の子さえ幼馴なじみと付き合いだして、わたしはなぜか恋愛に疎いくせに相談を受けたりしていた。(もちろん話を聞くだけでアドバイスなんてできない)

周囲は確実に性への関心が高まっていたのに、わたしは全く興味を持てず…持ってはいけないものだと感じていた…非常におくてだった。

わたしの彼への想いは「好き」で止まっていた。
片野君へのそれは純度100%のただの「好き」だった。
彼を独占したいとか、キスしたいとか触れてみたいとか結婚したいとか、そんなことはまだ考えることができなかった。

大人になったわたしにはどうしても『セックスするなら結婚できる人とではないとダメ』という基準が自分の中にあり、恋をするというより「結婚相手探し」になっていったので、付き合う相手に対する気持ちにはどこか打算や妥協が入り混じるようになっていく。

だから、この時の片野君への神々しく光る「ただの好き」に敵う「好き」はその後一度も経験することはできなかった。

さて、後ずさりをしたわたしにできるのは、遠くから片野君を眺めることだった。

彼がサッカー部の練習で校庭に出ている時は、校舎の中から彼の後ろ姿を探した。
どんなに遠くてもどんなに人が多くても、すらっとしたジャージの後ろ姿をわたしはすぐに見つけることができた。

そんなふうに眺めていたのは夕暮れ時が多く、外は沈みかけた太陽が放つオレンジ色の光で満たされていた。

眩しい逆光の中でも、彼だけがくっきりとした輪郭を持っていた。
薄暗い曇りの日には、彼だけが周りの子より光ってさえ見えた。
片野君が笑っている声が届けば、わたしも少し幸せな気持ちになれた。

そういう彼を見ながら、どうすることも出来ないわたしはいつもちょっと泣いていた。
校舎の窓の縁に頬杖をつき、誰にもわからないようにこっそりと涙を拭いていた。

できれば前のように一緒に話したりふざけたりしたかった。
彼が「くりちゃん」と名前を呼ぶのを何度も聞きたかったし、隣で笑っているのをずっと見ていたかった。

ある日の教室でのこと。
わたしの後ろの席で片野君とわたしの女友達S子が話しているのが聞こえてきた。

片野君が女子の誰をどのくらい好きかという話だと気づき、わたしは何も書かれていない黒板を見つめたまま硬直して聞き耳をたてていた。

S子が「じゃあくりちゃんは?」と片野君に聞く。
わたしはそれ聞きたくない、と席を立とうとしたのだけれどお尻が椅子にくっついたように動けなかった。

「くりちゃんですか。え、オレくりちゃん好きですよ」という屈託のない片野君の声がやけにはっきりと聞こえた。

はっきりしすぎて、まるですぐ前にいるわたしに聞こえるように言っているかのように思えた。

S子は面白がって「へえ〜!そこはハッキリしてるんだ。それってライク?それともラブ?」とさらに突っ込んだ質問をした。

次に片野君が何かを言い出す前にわたしは思いっきり椅子を蹴って立ち上がった。
そしてロボットのようにギチギチとぎこちなく首を動かして後ろを振り向くと、
「そそそんなのライクに決まってるでしょ!」と言い捨て教室を飛び出していた。
結局その時の返答は謎のままだが、やはりライクに決まっていると今でも思う。

2学期になり、「1週間後に席替えをします」と担任の先生が予告をした。
いつも席替えはくじ引きだ。

わたしはその日から当時読んでいた本のありとあらゆるおまじない(笑)を試し、片野君の隣の席になるよう祈願した。

そして当日。
古典の授業で習った
『源平合戦で那須与一が扇の的に弓を射るときに神に祈った言葉』を繰り返し暗唱し、どうか片野君の隣の席を…!と天を仰ぎくじ引きに臨んだ。(周りの友達は引いていた)

片野君はすでにくじを引き終わっており、わたしが「6」という番号を引けば隣の席確定である。

その時、20分の1の確率。
あんなに緊張したくじ引きは人生で1回だけである。

紙製のボロい箱に手を突っ込み、「ろくぅぅぅ〜〜ろくぅぅ〜〜」と誰にも聞こえないように唱えながら紙片を取り、震える手で開く。

…なんとわたしは「6」の番号を引き当てた。

ぎこちない片想いをしている相手の隣の席を獲得することができたのだ。
その瞬間白目をむいて卒倒しそうになったが、そんなことをしたら皆に気持ちを悟られてしまうのでなんとか踏みとどまった。

片野君の「え、オレの隣くりちゃん?やったあ」という声が聞こえて、顔から火が出るかと思うほど熱くなった。

クラス全体がガタガタと重い音を立ててくじで決まった通りの席替えをする中、あちらから机と椅子を持って近づいてきた片野君が「へへへ、よろしくね」とちょっとはにかんだ。
心臓がぴょんと飛び跳ねた。
死ぬほど嬉しかった。
その時、わたしはちゃんと答えることができていただろうか…。

今でも思うが、どうして彼は中学生だというのにこんなに素直で擦れていなかったのだろう。かと言って子供でもなく、まるで大人の男性にエスコートされたり可愛がられているかのような錯覚をわたしは覚えていたのだった。

こうして、片野君と隣の席の2学期が始まった。
隣にいることに慣れてくればずっとしていた緊張もほぐれてくる。
そのまま自然と話せればよかったのだが、わたしはすっかり話しかける機会を失ってしまっていた。

それでも彼が使っているシャーペンや消しゴムや筆箱を間近で見て、彼の書くきれいな文字を時々見て、腕まくりしているジャージの袖を見て、眠そうな横顔を見て、うつむいているときのまつげの長さを見て、幸せな気持ちになっていた。

しかしこのままでは全く話せないまま3年生のクラス替えが来てしまう。
わたしはある日、勇気を出すことにした。

美術の授業で木工室へ移動し、彫刻刀でそれぞれが木彫りの何かを削りクラスへ戻ってきた時、わたしは自分でも笑ってしまうほど出来損ないのペン立てを片野君に見せた。

「ねえこれ、何だと思う?」
久しぶりに自分から話しかけた。

片野君は意外そうにでも嬉しそうに目を見開き、わたしからその変なペン立てを受け取って笑いながら「えーこれ?何かなあ」とためつすがめつ見てくれた。

わたしが投げかけたものすごく久しぶりの些細な問いかけに、簡単に返答せずに時間をかけて考えてくれていているのがわかった。

やがて「うーん、カバ!ですか?」と彼がこちらを見る。
「違うよ、ナスだよ…」わたしが肩を落とし笑いながら答える。
「えええ、これのどこがナスですかー!」と彼が大笑いする。

思い切って話しかけた時の片野君の嬉しそう(に見えた)反応がわたしに小さな自信をもたせ、その日から少しずつまた彼と話せることが増えた。

わたしは今でもそのナスだかカバだかのペン立てのいびつな形を覚えている。
いびつで、不格好で、笑いを誘う下手くそなペン立て。
中学卒業とともに、どこへか失くしてしまったけれど…。

実は、片野君の隣の席にいて幸せな思いをしているのはわたしだけではなかった。

わたしたちの席はちょうどクラスの中央あたりだったのだが、片野君と通路を挟んで隣の席の女子(T美)も、片野君に片想いをしていたのだ。

彼女はチビでやせっぽっちなわたしとは違い発育が早く、大人っぽくふくよかな体をしていた。
彼女はわたしにはない色気を使い彼に近づこうとしていた。
時々語尾にハートマークがついているかのような甘えた口調で話しかけていた。

そして片野君は他の男子と同じようにちゃんとスケベであり、通路を挟んで隣の女子がちらちらと谷間を見せながら下着の話をしてくれば、ヒソヒソと話に乗るくらいに健全なのであった。

わたしはそういう時は話を絶対に聞くまいと反対側をむいて聞こえないふりをしていた。
しかしある朝、T美の甘ったるい
「今日ね〜新しいブラつけてるんだぁ〜。見る〜?」という思いのほか大きな声が聞こえてしまった。

わたしはカバンから教科書を取り出しているところで、朝っぱらからまた始まった、とそっぽを向いたままため息をつきそうになった。

次に片野君が押し殺しながら発した言葉は今でも忘れられない。

「シッ…何言ってるんですか、くりちゃんはまだブラをしていないんだからそんな大きな声で言わないでください」

…おい片野。

「やだあ〜、何チェックしてるのよお〜」と大げさにクスクス笑うT美の声をBGMに、わたしは自分の体から血の気がサァっと音を立てて引いていくのを感じた。

青白い顔で、今まで気にもしていなかった『女子のブラジャー、制服で完全に透けている』という恐ろしい事実に初めて目を向けた。
クラスの女子たちの後ろ姿。白いブラウスの下はブラ線が丸見えだった。
女子全員のブラ線が見えて、下着が未だにキャミソールなのは自分だけだった!
今度は血が逆流して顔が真っ赤になった。

これは以前ブログにも書いたことだが、わたしの母は娘の第二次性徴やブラジャーがそろそろ必要かもしれないということなど一切気にしない人だった。
むしろそれ以上わたしが成長するのを嫌っている節があった。
だからわたしはいつまでも子供っぽくしているほうがいいのだと思い込み、性のことにわざと興味を持たないようにしていたのかもしれない。

まあそれはともかく、その日帰るなりわたしは母に土下座をして頼んだ。
お願いですからブラジャーを買ってください、クラスでつけていないのはわたしだけですと。

思ったとおり母は不機嫌になったが、「クラスでわたし一人だけ」という言葉は、周りと足並みを揃えたがる彼女のプライドを多少かすったらしく、なんとかお金を出してもらえた。

次の日わたしが初めての白いブラジャーをつけて登校すると、片野君が一瞬こちらを見てT美に
「よっしゃくりちゃんがブラつけてる〜!」とひそひそ声ガッツポーズをしていた。

…ぅおい片野!

聞こえてる聞こえてる。わたし耳はすごくいいのよ…。
心の中で盛大に色々とツッコミながら、恥ずかしさもあったが他の女子との会話の中でさえわたしが登場し、気にしてくれていることにくすぐったさを覚えた。
(普通にスケベという理由ではわたしは幻滅しなかった)

そしてまた席替えがあり、片野君とは教室の反対側に離れてしまった。

ここまで読んでくれた気が長く優しい読者の方は、ひょっとしたら「片野君も筆者のことを好きだったのでは」と思ってくれるかもしれない。

しかし、そうではないという決定的なことが起こった。

ある日の放課後、委員会から解放されたわたしが教室に戻ると(わたしは常に何かしらの委員会を掛け持ちしていた)、片野君がたった一人でクラスの後ろにあるロッカーの上に座っていた。

わたしを見つけるとちょいちょいと手招きをする。
わたしはドキドキしながら誰もいない教室に入り、ロッカーの上の彼の隣に少し間を開けて座った。

彼はなんだかにやけた顔をしていた。
「どしたの?1人で何してたの?」とわたしが訊くと
「あ、今帰ったけど友達に相談してたんですよ、実は好きな子ができて」と答えた。

唐突だった。

わたしは表情を変えないよう注意しながら「…そーなんだ〜」と言った。

「話したこともないのに好きになっちゃって。隣のクラスのK田さんなんですけど」

それはわたしも知ってはいるが話したことはない女子の名字だった。
彼は聞いてもいないのにペラペラと話してくれた。
それだけ自分は信頼されているんだという気持ちと同時に、切なさがこみ上げて涙が出そうになった。

「…で、どう思います?」と彼がこちらを見ずに話すのでわたしも「さあ…K田さんのことはよく知らないけど…頑張って…」と彼を見ずに答えた。

その日の帰り道、一人で泣きながら歩いた。

学校は田舎にあり、周りは田んぼと住宅街で構成されていた。
その日もオレンジ色の夕焼けがまぶしかった。

わたしは「なぜ話したこともない人を好きになれるのか、男子は見た目だけで人を好きになるのか、片野のドスケベめ!」とつぶやきながら泣いていた。

その後、片野君とK田さんが付き合ったという噂も、すぐに別れたという噂も耳にした。
彼はもうそういうことをわたしに報告しなかったし、わたしも自分から噂の真偽を問うことはしなかった。

でもうまくいかなかったなら、あのニヤニヤしてた片野君は傷ついただろうな…。
そう思うと胸がちくりと痛んだ。

この頃から片野君のことは好きだし相変わらず心臓は締め付けられたが、わたしはこの恋に対してだんだんと耐性がつきはじめていたのかもしれない。

また別のある日の放課後のことだった。
S子が付き合っていた幼馴染みの彼(N雄)と別れるという話を聞いた後だった。

N雄が突然廊下でわたしにつっかかってきた。
「おいお前のせいでS子と別れることになったんだからな!」と怒鳴られ、わたしはとても面食らった。

必死に思い返してみる。

確かにS子が幼馴染みのN雄と今どうなっているという話はいつも聞いていたが、積極的にアドバイスをした覚えはない。ただ相槌を打っていただけだ。

その間にも「どうしてくれんだ!」とN雄はさらに近づいてきた。
少し面白がっているようにも見えた。

N雄は体が大きく、わたしはクラスで2番めの身長の低さだったため迫られると見上げるような形になった。

壁際まで追い込まれてわたしは座り込んでしまった。
何これ怖っ…と思った時、どこで見ていたのか廊下をすべるように片野君が走ってきた。

「コラー!オレのくりちゃんに何するんだ」
と言いながらわたしをかばうように立ち、N雄と対峙した。

元々片野君とN雄は仲が良い。
片野君のおかげでふざけた空気が流れて怖さはどこかへ行った。

N雄の「えー何してんだお前、こいつの事好きなの?お前らってやっぱそうだったの?」という言葉に片野君がなにか言おうとした時。

わたしは思わず目の前に(わざと面白くするために)突き出された片野君のお尻を「何冗談言ってんのよもうっ」とひっぱたいた。

そしてそのまま逃げた。
逃げなければ心臓の音が聞こえてしまうと思った。
「オレのくりちゃん」て何!と走りながら泣きそうになった。

あの時ちゃんとお礼が言えたらよかったのに。
なかなか素直になれない自分に苛立ちを感じていた。

そして季節が変わり、バレンタインデーがそこまできていた。

わたしの通っていた中学では、本気のバレンタインチョコをバッグに忍ばせて学校で渡す子が多かった。
その日が近づくとクラス全体がソワソワしていた。

女子は誰にどうやって渡すのか頭を突き合わせて相談をし、それに聞き耳を立てる男子からの情報で色々な噂が立った。

その中の嘘か真実かわからない噂の中に、片野君はわたしのことが好きだという話があるのだと、違うクラスの友達が教えてくれた。

本当にそうだったらいいのにと思いながら、「それは前からある根拠のない噂だよ」と返答していた。

…しかしその噂がバレンタインデー当日にわたしを邪魔してくるのである。

2月14日、わたしは綺麗にラッピングされたチョコレートをバッグの中に隠し登校した。

もちろん家で作ることなんてできない。親に見つからないように購入するだけで精一杯だった。

チョコレートには手紙をつけていた。
手紙で告白をしてしまうことにしたのだ。
当時のわたしにしてはとても大胆な決断だったと思う。
周りの雰囲気に押されたこともあるが、とにかく伝えたくなってしまったのだ。

告白するという行為の恥ずかしさを凌駕するほど、片野君を「好き」という気持ちが体から溢れ出して持て余していた。

そばにいると何も言えないから、遠くから「好き」を念じて伝えようとしても無理だということにもとっくに気づいていた。

もしチョコを受け取ってもらえて、この気持ちを知ってくれたらどうなるだろうか。
嫌われてはいないはずだ。

多分彼はわたしのことを好きではなくても、気持ち悪がるようなことはないだろう。

そんな彼の元来の優しい性格も、わたしの告白の背中を押してくれた。

わたしは教室で小さなメモに「放課後、B棟の木工室前に来てくれる?」と書いて片野君に渡した。

彼はそのメモを見た瞬間にビリっと電気が走ったようにわたしの顔を見て、驚いた表情のまま頷いてくれた。

今思えば、そんなやりとりを誰かに見られていたとしても全く不思議ではない。
でもわたしは周りが見えなくなっていた。

バレタインデーに呼び出されたら「そういうこと」だとわかるはずだし、彼は頷いてくれたからきっと受け取ってくれる。

わたしは淡い期待を抱きながらホームルームが終わるなりいそいそと支度をし、片野君を待つためにひと気の全くないB棟へと向かった。

…ところがである。

30分経っても彼は来なかった。
40分、50分と待つうちに前日からずっとしていた緊張の糸が切れ、わたしは猛烈な眠気に襲われてしまった。

木工室前の廊下で、わたしは膝を抱えて座ったままうとうとし、膝小僧に頭をつけて眠ってしまった。

バタバタと慌てて走る足音がして、はっと顔をあげるとなんだかボロボロになった片野君が息を切らしてわたしの目の前に到着した。

あたりはすでに薄闇に包まれていて、一瞬ここがどこかわからなかった。

片野君は冬なのに汗だくで、髪が乱れていた。

「ごっ、ごめん遅くなって、女子たちにかばんを取られちゃって…取り返すのが大変で…」

なるほど確かに、チョコレートを受け取ったらかばんに入れなければすぐにそうだと周りにわかってしまう。

片野君がわたしのことを好きだという噂を鵜呑みにして勘違いした女子たちが、彼がわたしからチョコレートをもらうことのないように強行手段に出たようだった。

それでも、来てくれた。
わたしとの約束を無視して帰ってしまうこともできたはずだ。
なのにもみくちゃにされながら、なんとか女子たちを巻いてこの場所に走ってきてくれたのだった。

それだけでもう、胸がいっぱいになった。

メモを渡す時にひと目を気にしなかったことに責任を感じ謝りながら、わたしは片野君にチョコレートと手紙を渡した。

片野君はそうとわかってて来たはずなのに、「えっ!ありがとう…!!」と驚いたような表情を見せてくれた。

彼はとことん優しかった。

何十年経っても、彼にチョコレートを渡したとき、驚いて喜んでくれた表情をわたしに思い返すというご褒美をくれた。

わたしはそのまま「じゃあ…」と立ち去ってしまったので、彼がどんな顔で手紙を読んだのか、チョコを食べてくれたのかもわからない。

手紙には彼を好きだという内容と(全くわたしらしくて笑ってしまうのだが)、ご丁寧にも返事用のカードまでつけていた。YESとNOのカードだ。
わたしの好きという気持ちに対して、何らかのリアクションが欲しくてそんなことをしてしまった。

しかし、そのカードのどちらかがわたしに渡されることはなかった。

その日からは本格的に片野君の顔を見ることができなくなってしまった。
さらに、彼は学校を休みがちになった。理由はよくわからない。

彼も前のように気さくに話しかけてくることは少なくなってしまった。
そのまま何も返事がなく、1ヶ月後のホワイトデーを迎えようとしていた。

わたしは中学時代の3年間、卒業式で在校生・卒業生代表の言葉を舞台で呼びかけるという役を任されていた。

冒頭に登場した、いつもめんどくさそうだけど生真面目な生徒会副会長のT君と2人で。

わたしが毎年先生から指名されていたのは、ただ演劇部で、声がはっきりと体育館の端まで通るということだけが理由だった。

送辞の内容を暗記し練習を重ねなければならず、その忙しさとやりがいだけが虚しさでいっぱいのわたしを学校へ行く気にさせていた。

3月14日は送辞と呼びかけを合わせる全体練習があり、わたしは休むわけにいかなかったのだが、高熱を出してしまった。

片野君からホワイトデーのお返しはもらえるのかとずっと気にしていたし、ここで練習を休むと次は本番になってしまう。
しかし熱はあまりにも高く、断腸の思いで欠席するしかなかった。

家の布団で寝込みながら、もう練習は始まっただろうか、片野君はもしかしたらお返しを持って登校してくれたかもしれないのに、わたしが欠席で拍子抜けしたのではないか、と勝手な想像をしていた。

しかし、翌日になりその日は片野君も学校を休んでいた事を知った。

わたしは告白の返事がもらえず、ホワイトデーのお返しももらえずでがっくりきていた。

あんなことするんじゃなかったと自分を責めた。
もしかしたらと淡い期待を抱いていた自分が本当に間抜けだなと思った。

友達に戻れたらいいのに…

そんな思いでいたホワイトデーの1週間後、片野君がわたしの席に突然やって来た。

なんだかそわそわしている様子だった。

そして周りの人に見られないよう口元をノートで隠し、また別のノートを見るふりをしながら、わたしに「今日の放課後木工室の前にきてください」と早口でこっそりと伝えてきた。

わたしは心底驚いた。
「え、う、うん」と頷くと彼も頷き、自分の席へ戻っていった。

この時のコソコソしたやり取りを思い出すと、今も心臓がきゅっとなり顔がにやけてしまう。
口元を隠すために彼のきれいな手が押さえていたノートは、わたしのものだった。

わたしたちは例の木工室の前で、今度はすんなりと会う事ができた。

彼はホワイトデーのお返しを「これ、遅くなっちゃったんですけど…」と渡してくれた。

目を合わせてはくれなかった。

わたしも「あっ…ありがとうございます」と言いながらペコリとお辞儀をするので精一杯だった。

家に帰ってから箱を開けると、キャンディーとチョコレートの女の子らしく可愛い詰合せだった。手紙はついていなかった。

それでもわたしは、こんな女子っぽいものを選んでわたしにくれた片野君の気遣いを感じられただけで幸せな気持ちになれた。

このお返しは、わたしに対して恋愛感情はないけど、ちゃんとお礼はしてくれる彼の優しさなのだと理解した。

2年生の最後のイベントは、班行動で東京へミニ旅行をするというものだった。
神様はこの時期のわたしにとても優しかった。
男女3人ずつの班決めで、なんと片野君と同じ班になれたのだ。

ふざける片野君を使い捨てカメラでたくさん撮った。
また普通に話したり笑い合ったりできるようになっていた。

片野君はわたしの気持ちを知っているが、拒否されたわけでも受け入れられたわけでもない。
前と同じように接してくれた。
それが嬉しかった。

春休みには調子に乗ってグループデートのようなこともした。
わたしの父が、映画の招待券を6枚くれた。
仲のいい男女3人ずつでまた東京へ映画を観に行ったのだ。
しかし男子は男子、女子は女子でぎこちなく別行動をとってしまったため、まったくデートと呼べるようなものではなく、片野君としゃべることもできなかった。

そしてわたしたちは3年生になり、片野君とクラスは離れてしまった。

クラスが変わると彼とは顔を合わせることがほとんどなくなった。
だからわたしは放課後になるといつものように校庭へ向けた窓に立って、夕暮れのオレンジ色の光の中に彼の姿を探していた。

片野君は1組で、わたしは5組だった。

1組にはC子というわたしの友達がいて、3年生になってからの片野君のことを色々と教えてくれた。
(彼女にだけは片野君が好きだということを話していた)。
C子の好きな人はわたしのクラスにいたので、毎日情報交換をしていたのだ。

ある時C子が、興奮気味にわたしに話をしてきた。
C子が片野君に「今付き合っている人はいるの?」と訊くと彼は「5組の学級委員長ですよ」とケロリと答えたという。

…5組の委員長とはわたしのことである。

もちろん付き合ってなどいない。

C子がわたしと仲がいいのを片野君が知っていて、わたしが探りをいれていると思ってそんなことを言ったのだろうと思う。

こうして会うことが少なくても、片野君はわたしの心をかき混ぜてきた。

季節は巡り、周りの子たちの恋愛事情はころころと変わっていった。
誰かと誰かが付き合ったり、誰かが誰かに告白したりしていた。

わたしは失恋したわけでも恋が実ったわけでもないので、ずっと片野君を好きなままだった。

ある時、突然廊下で片野君に「くりちゃん!」と呼び止められて硬直した。

「オレ明後日誕生日なんですよ!おめでとうって言ってくださいよ〜」
「え、あ、お、おめでとう…って、明後日なんでしょ」
「そうですけど、今でもいいじゃないですか」

そしてまた笑顔のまますれ違い、歩いていく。
彼からすれば何気なく言ってみただけなのかもしれない。
それでもわたしにはきっかけになってしまった。

片野君の誕生日に、わたしはプレゼントを渡すことを決めた。

プレゼントを渡して、今更わたしを好きになってほしいだとかそういう気持ちはなかった。
ただ好きな人の誕生日に何かしたかった、それだけの動機である。

プレゼントには、持っていても邪魔にならない筆箱とシャープペンシルとタオルをこっそりとお小遣いで購入した。

片野君には誕生日当日の部活終了後に、校庭の隣にある公園に来てほしいとC子に伝言をお願いした。

こうして、わたしにとって忘れられない日がやってきた。

その日はまだ暑さの残る初秋の日で、夕陽を反射してオレンジ色に光る大きな雲が空にぽっかりと浮かんでいた。
わたしはその空をずっと飽きずに見上げながら、誰もいない公園のベンチで片野君を待っていた。

ベンチのすぐ脇には大きな木があり、風が吹くとさあっと音を立てて葉が擦れあった。
他には、野球部のかすかな掛け声と、吹奏楽部の途切れながら届く演奏の音だけが僅かに聞こえていた。

遠くから、片野君が歩いてくるのが見えた。
わたしは思わず立ち上がる。

いつもオレンジ色の光の中で片野君を探す時、決まって後ろ姿ばかりを見ていた。
だけど今日は、彼がまっすぐわたしに向かって歩いてきている。
わたしも同じ、オレンジの光の中に立っている。
そのことだけで、涙が出そうになった。

彼は学ランの上着を脱いで、手に持っていた。
重そうなカバンと、袋に入ったサッカーボールを持ってゆっくりとこちらに近づいてきた。

片野君の元々色素の薄い栗色の髪が、オレンジの光に透けてとてもとても綺麗だった。

この色を、この絵を描きたいと思った。
時間を止められるなら、ずっと見ていたかった。

そう強く願ったからか、二十年以上経ってもわたしはその光景を今も目の前にあるかのように思い出すことができる。

片野君がわたしの前まで来て、わたしたちは本当に久しぶりに真正面から目を合わせた。
わたしの長い片想いの中で、この瞬間が唯一、二人きりで彼の瞳と向き合うことができた時間だった。

去年よりも明らかに彼の肩幅は広くなり、身長も伸びていた。
風が吹いてオレンジに透ける前髪がふわっとあがり、形のいい額が露わになった。
片野君はまぶしそうに片目をつぶった。

「呼び出しちゃってごめんね、お誕生日おめでとうございます」
そう言いながらわたしはプレゼントの包みを両手で差し出した。

彼はありがとう…と受け取りながら、わたしの座っていたベンチに腰掛けた。
彼が木陰に入り、もうまぶしくなさそうなのを見てわたしはなぜかほっとしていた。

「…開けてもいいですか?」と片野君がこちらを見上げて尋ねる。
その瞳には今、わたしだけが映っていた。
「もちろん…です」とドキドキしながらわたしは隣に座る。

あまり大きなベンチではなかったので、心臓の音が聞こえやしないか少し心配だった。

彼は包みをほどき、一つ一つ手にとって小さな歓声を上げ、ちゃんと喜んでくれた。
プレゼントが自分の欲しいものや好きなものではなかったとしても、嬉しそうにしてくれる人だった。

一度開いたプレゼントを丁寧にカバンの中にしまっても、彼は立ち上がろうとしなかった。

沈黙が訪れる。

もう部活の時間は終わったのだろう、葉の擦れる音しか聞こえなくなった。

静けさに耐えられなくなったわたしは、まだここにいたいと思いながらも立ち上がっていた。
「じゃあ…」と言いかけると「くりちゃん」と片野君が口を開いた。
わたしは持ち上げた荷物をまたベンチに置いて彼を見た。

彼はわたしを見ずに、カバンの上に置いた自分の手を見ていた。
そして、こう言った。

「あの…くりちゃんのことは…可愛い妹、みたいに…思ってますよ…」

とても唐突な、しかしやんわりとした拒絶の言葉だった。
まるで首に大きな岩をがんっと打ち付けられたような衝撃がわたしの体に走った。
手のひらに目を落としていた片野君がわたしを見上げた。
そこにいつものふざけた表情はなかった。

彼はこの言葉を今日言おうと用意してきたに違いなかった。
わたしが彼にいくら何をあげようと、付き合うことはできないと言われたのだと思った。

わたしが黙っていると、片野君はなんだかつらそうな顔になりもう一度目を手のひらに落とした。
だから、彼を安心させるために急いで答えなければいけないと思った。

「あ、妹ね!うん、妹か、了解です。そしたら明日からお兄ちゃんて呼ぶね!」

そのまま彼の顔をそれ以上見ることはできずに、「じゃっ!」と公園を急いで出る。

まだ泣いちゃダメまだ泣いちゃダメ…早足で、公園から少しでも離れて…と歩き続け、わたしは途中で堪えきれずにしゃがみこんでわんわん泣いた。

でも…家に帰ってから「妹」という言葉をよく考えてみると、納得のいくことが次々に思い当たった。

山登りの時、身長の低い妹が心配でわざわざ引き返してきた兄。
乱暴な同級生に絡まれている妹を助けにきた兄。
妹がブラジャーをつけたのを確認し、やっとかと成長を喜ぶ兄。(少なくとも同級生はそんなことしない)

それだけではない。

わたしが全国統一模試でとった国語の成績を表彰された時は自分のことのように自慢してくれた。
文化祭で漫画を描いたら、わざわざ先輩まで連れてきてわたしの作品を宣伝してくれた。
球技大会で片野君を応援している時、なぜか試合の途中でわたしの頭をポンポンしにきてくれた。
わたしが毎日描いている漫画の続きをいつも読んで感想を言ってくれた。

本当に妹のように思っていてくれたのかもしれない。
そう思うとわたしは救われた。

彼が弟を可愛がる様子を見て、羨ましいと思っていたから。
失恋だけど、確実にそれだけじゃなかった。
それは、彼の思いやりがもたらしてくれたものだった。

でも彼の迷惑にならないよう、これ以上自分の好きだという気持ちを押し付けるのは辞めよう、と思った。

そして(ベタな考えだと思うが)わたしは髪の毛をバッサリ切り、潔く諦めようと思った。
その日のうちに近所の安い美容院へ駆け込んだ。
いつもポニーテールや二つ結びにしていた、肩甲骨まであった髪を生まれて初めてショートにした。

質量が軽くなった頭で、明日は普通に登校できそうだと思った。

翌日学校へ行くと、髪を切ったわたしを見てすぐにC子が昨日プレゼントを渡してどうだったのかを尋ねてきた。

わたしは、妹だと思ってるって言われて泣きながら帰った(笑)と素直に報告した。

「なにそれ、告白したわけでもないのに急にそんなこと言われたの?」と憤慨するC子に、
「片野君はまた好きな人ができたのかも…それで、わたしと変な噂があると困るからそういったのかも…?わかんないけど」と言ってなだめた。

その日は片野君とすれ違うこともなかった。
わたしはどこかほっとしていた。

次の日、階段の踊り場で上から降りてくる片野君が見えた。
彼はわたしの髪が短いことに気づき、目を丸くして近づいてきた。

「くりちゃん…髪切ったんですか…」
「そうだよ!かわいいでしょ〜」とわたしは軽く答えて階段を駆け上った。

じめじめしてると思われたくなかった。
まさか本当に「お兄ちゃん」などとは呼べなかったけれど。

ところがである。

その後すぐ、1組に戻った片野君がC子にこう聞いていたのだ。
「くりちゃんが髪を切ったの、なんでか知ってますか?」

そして、C子はわたしが一番言ってほしくないことを言ってしまった。

「失恋したからでしょ…アンタ、くりくりに「妹」とか言ったんだって?くりくりは泣きながら帰ったんだよ!そんなこと言われて傷つかないとでも思った?!」

後からC子にこの話を聞いたわたしは青ざめた。

「え…そ、それで片野君はなんて…?」

C子は申し訳無さそうに続けた。

「ショック受けた顔で教室から出て行っちゃって…そのまま給食の時間は戻ってこなかった」

心配で探しに行った男子が、トイレの個室にこもり鼻をすする音が聞こえ、彼が泣いていたようだと言ったが、5時限目に戻ってきた時にはいつもの片野君だったという。

あのいつもおちゃらけた片野君が泣いているところは想像しにくかった。

何より、わたしのために泣いてくれたのかと思うと心臓がつぶされそうに痛くなった。

わたしは髪を切るべきではなかったし、友達にペラペラと話すべきではなかった。
彼は精一杯の優しさをくれたのに、こんな形で傷つけてしまったことを心底申し訳ないと思った。

だから、もうわたしは何もしない。

放課後、こっそりと彼の姿を遠くから眺めるのだけは相変わらず続けたが、自分から積極的に彼と関わることは本当にもう辞めた。

それなのに。

2ヶ月後のわたしの誕生日、休み時間に片野君がわたしのクラスへ来てわたしに手招きをしていた。
クラスの多くの子が振り返り、好奇の目でこちらを見ていた。

廊下で、「くりちゃん誕生日おめでとう」と可愛い紙袋に入ったプレゼントをくれた。

片野君は笑っていた。

わたしは他の子の目を気にしたが、彼はなんとも思っていないようだった。

差し出された袋を信じられない思いで受け取った。
「中を見ていい?」と彼の了承を得て袋を開くと、そこには銀色夏生の詩集が2冊あった。

「くりちゃんが好きそうなやつをすげー時間かけて選んできました」

そんなすごい言葉をもらったわたしは、本の表紙に目を落としたまま、涙がこぼれそうになるのを我慢した。

彼はわたしが無類の本好きということを知っていた。
以前、塾の帰りに片野君と書店でばったり出くわしたことがある。
その時わたしが見ていた棚を覚えていてくれたのかもしれない。

銀色夏生の詩集には、きれいな写真とせつない恋の詩がたくさん載っていた。

開いた途端に好きになった。

わたしは毎日それらの本を手に取り、何か彼からのメッセージはないかとすべてのページを暗記できるくらい読んだ。
(もちろんそんなもの、あるわけがなかったが)

彼がわたしの知らない所で、わたしのためにこの本を選んでくれたことが、自分には起こり得るはずのない奇跡のように思えた。

もうそれだけで本当に充分だった。

あの日に受け取ったプレゼントほど感動した贈り物は、未だもらったことがない。

わたしたちは受験の季節を迎えた。
部活動はなくなり、彼がサッカーをする姿を見る機会もなくなった。

わたしはある高校の単願推薦をもらい、合格した。

これはまたC子から聞いたことだが、わたしが推薦をもらえることが決まった後、片野君がC子に「くりちゃん○○高行くんですよね?オレもくりちゃんと同じ高校受けます」と宣言し、本当に併願受験していたのだ。

彼の結果は不合格だった。
もし一緒の高校に行けたら…と何度も妄想していたが、それが叶うことはついになかった。

そして、わたしたちの卒業式の日がやってきた。

式典の後、多くの人が門の前でカメラのシャッターを切っていた。
卒業生は胸に赤い花をさし、一輪ずつチューリップの花と卒業証書の筒を持っていた。
みんなが名残惜しがり、なかなか帰ろうとしなかった。

以前、廊下で絡んできた体の大きいN雄がわたしに、「おいくり、俺の第2ボタンやろうか!」とからかってきた。
わたしは「いらない」と死んだ目で即答した。
どうもN雄はわたしが自分のことを好きだと勘違いしていたらしく、「最後に写真一緒に撮ってやってもいいけど」とも言っていて、何この人…とドン引きしていると、後ろから「くりちゃん!」と呼ばれた。

片野君が立っていた。

彼が着ている学ランのボタンは全部なかった。
持っているチューリップは折れてしまい、袖口のボタンまでなくなっていた。

あーあすごい格好…ボタン全部引きちぎられたのかしら…と思っていると、
「くりちゃん、手を出して」と言われた。
「手…?」と右手を差し出すと、手のひらにぽんと何かを置かれた。

学ランのボタンだった。

「第2ボタンは、取られないようにあらかじめとっておきました」

少し照れた顔で片野君がそう言った。

わたしは我慢できなくなった。
堪えられそうにない。もう、無理。
片野君の顔を見たままボロボロと涙をあふれさせてしまった。

夕陽の中で、その背中をいつも遠くから見ていた人。
いつもいつも優しくて、落ち込んでいるわたしを無理にでも笑わせてくれた人。
わたしの気持ちを迷惑がらずに傷つけまいとしてくれた人。

もう、会えなくなる。
いくらオレンジ色の光の中を探しても、もうどこにも彼を見つけることはできなくなる。

彼は「わ、泣かないでください」と少しオロオロして、それでも笑っていた。

もう最後なんだ、何も我慢しなくていいんだと思ったわたしは大胆にも「じゃあついでに名札もくださいぃぃ…」と泣きながらお願いした。

「これオレが書いた字じゃないけど、こんなんでいいの…」と笑いながらもすぐに片野君は名札を外して渡してくれた。

──いいの、片野君の名前が好きなの、片野君の全部が。

両手で受けとった名札の文字は、多分彼のお母さんが書いたものだった。
彼の名前は漢字4文字で、細い油性マジックの字がバランスよく並んでいた。
この名前を一生忘れられないだろうと思った。

事実、銀色夏生の詩集2冊と第2ボタンとこの名札は、ずっとずっとわたしの宝物になった。

彼の名札を手にしたわたしは、ますます厚かましくなる。

「あと握手も…」と頼むと、彼は笑いながらしっかりと手を握ってくれた。

わたしはなかなか手をほどくことができなかった。

「あーくーしゅ!元気でね!」
片野君は自分から手を離すことをせず、握ったままのわたしの手を笑いながらぶんぶん振ってくれた。

最後までわたしの想いを大事にしてくれた。
卒業式に、自分のことよりもわたしの気持ちを優先して考えてくれていた。
こんなに、泣きたくなるほど優しい人に、わたしはこの先出会うことができるのだろうか。

これが片野君と話した、彼の姿を見た最後だった。

最後にわたしの目に焼き付いた、困ったような照れ笑い。
二度目に触れた彼の手も、温かかった。

軍手ごしに彼の手を掴んだときに生まれたわたしの片想いは、
最後に本当の彼の手を握って、永遠に終わった。

引用元:ある中学生の初恋。【夕暮れの片野君】

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